2013年4月21日 (日)

赤い象

ある人里離れた山奥のさらに奥、鬱蒼と繁る森林の中に、不思議な歌声が響いています。 歌はそよ風になって濃い緑色の草葉を揺らし、遠くの湖の水面までも、ささやかに波立たせているのでした。 しかしそれほど遥かに届く歌ですが、どんなに耳を澄ましてみても普通にしていては聞こえません。ちょっと耳を大きくしてみましょう。と言っても顔の左右についている、その耳ではありません。心の聴覚を大きくするのです。そう、平べったく、ちょうどピザの生地を伸ばすように、もっともっと大きく、まるで象の耳みたいにすると──ほら聞こえてきました。 歌詞はなく、いくつもの震動が絡まりあって、複雑な旋律を奏でています。それは単なる音ではなく、足の裏から体の中を通って、心臓を直にくすぐるように響いてくる、素晴らしい歌声です。 どうやらこの木々の中にある象の学校で、今しも音楽の授業が行われているようです。 子象たちはそれぞれ好きなように歌っているのですが、十頭分の声はどのように混じっても不思議と快い調和をとるのでした。 それというのも象は皆、生まれながらの芸術家で、学校では理科や算数こそ習いませんが、音楽や図工の教育は他の動物に類がないほど進んでいるのです。 さて次は図画の授業が始まるようなので、ちょっと覗いてみましょう。 なに大丈夫です。学校と言っても校舎があるわけではなく、従って教室があるはずもなく、端から見ればただ森林の中に十頭ばかり象が集まっているだけなのですから。そこの巨木に隠れて見てみましょう。 担任の先生が、今日の課題を発表しました。 ちょうどこの、大きな皀莢(さいかち)の木を対象に絵を描くようです。 子象たちは可愛らしくもさすがの長い鼻を、器用に筆に絡ませて、地べたに置いた平たい岩に、てんでに絵を描き始めました。 早さは様々ですが、どの子象の岩にも本物とそっくりの大きな木が、まさか鼻を使って描いたとは思えないほど上手に描かれていきます。 皆が描き終わると、出来上がった作品をそれぞれが鑑賞し合い、ざわざわと称賛の声が飛び交い出しました。 中でも特に注目を集めた作品は、やはりクラスで最も優秀なスターフくんのものです。 その絵は本物の皀莢と見まがうほどの出来映えで、写真と言われても解らないくらい写実的でした。 しかしスターフくんは、さんざんもて囃された後、ある小さな象の方へ鼻先を向けてこう言いました。 「シャリルくんの絵は、実物と違うね」 皆の視線が一斉にシャリルくんの顔へ向けられると、彼はばつが悪そうに俯きました。 一体彼の絵のどこが実物と違っているのでしょう。一見すると、確かにスターフくんの描いた皀莢のような、写真と見まがうほどの出来ではないにしろ、充分に巨木のどっしりした感じを巧く描けています。が、よく見ると──ありました、木の中程に、ほんの小さな褐色の兜虫がとまっています。 確かに実際の木には、虫の姿は見当たりませんので、優秀な生徒はこれを指して実物と違うと言ったのでしょう。 しかしその兜虫は、目立たないながらも絵の中で小さな存在感を示していて、それがまた木の偉大さを引き立たせているようにも感じられます。 シャリルくんはむっつりと黙って俯いていましたが、ややあってから、 「木をそのまま描くだけなんて、つまらないから……」と呟きました。 これにはスターフくんも少しむっとしましたが、先生が、 「この皀莢の木には、朝方によく兜虫が樹液をなめにきているから、シャリルくんはそれを知っていて描いたんだね」と言ってその場を取りなしましたので、喧嘩などにはならずに済みました。 さあ気を取り直して、次は工作の時間です。 先生は今日の課題を、粘土で彼ら自身の模型を作ることにしました。つまり象の像です。 特殊な土に水を混ぜた、白く柔らかな粘土は、簡単に形を変えることができますし、絵の具で色をつけることもできます。 子象たちは自慢の鼻の先を使って、巧みに粘土をこねて形を作ると、それが固まるやいなや色を塗り始めました。灰色一色ではなく、実際に忠実に濃淡をつけているところなどは、さすが生来の芸術家といったところです。 やがて全員の作品が完成し、皆で鑑賞する段になりましたが、何故かしいんとしています。子象たちは、やはりシャリルくんの作品に言葉を失ったのでした。 彼の作品は象の形をしていこそすれ、異様なことにその体は朱色をしていたのです。しかも頭の部分は俯いていて、影になっているように黒く塗られていましたので、なんとも無気味な風情が漂っていました。 これにはさすがの、小さな(大きなと言うべきでしょうか)芸術家たちも、どう評価したらよいのか解らず、先生までもが困惑しています。が、やがて一頭の生徒が、 「こんなの象じゃないよ、変なの」と言ったのをきっかけに、他の生徒たちも口々にシャリルくんの象を貶し始めました。中には、「こわい」とか「きもちわるい」という声もあります。 しかしスターフくんだけは、何か難しい顔をして考え込んでいます。 シャリルくんはまた、俯いたまま黙り込んでしまいました。 先生は何か言おうとしましたが、そこへふと、校長先生が通りかかりましたので、姿勢を正して挨拶をしました。すると生徒たちも皆、口をつぐんで、背筋をぴんとさせました。 それもそのはず、校長先生は世界的にも有名な芸術家で、象ならばまずその名を知らない者はなく、皆の尊敬を一身に集めている偉い先生なのです。 校長先生は微笑みながら、 「やあ、皆さん。やってますか」と挨拶したかと思うと、ある一点を見つめて固まりました。そうして、 「ほお……」と詠嘆の声を漏らしましたので、皆もつられてその視線の先に目を向けました。 そこにはシャリルくんの作った、あの珍奇な象が、やはり不気味な有り様をして置かれています。校長先生はこれに感心したようです。 「これは素晴らしい。独創的だし、何か心に訴えてくるものを感じるね」 さあ、とても偉い校長先生が褒めましたからには、他の生徒たちは先程の自分たちの言葉を省みて、苦笑いするしかありません。 シャリルくんは、校長先生の顔を見て嬉しそうに笑いました。そして長い鼻を高々と掲げて、誇らしげにしています。 続けて校長先生は、こんなことを言いました。 「皆さんは、この珍妙な作品を見て、何を思いましたか。もしかすると、その意味するところが解らなくて、困ってしまったのではないですか。ねえ、スターフくん、どう感じればいいか迷ったでしょう」 突然名前を呼ばれたスターフくんは、はっとしましたが、 「はい……、赤い色というのがすごく奇妙で、こわいような変な感じがしましたが、何か鬼気迫るものを感じました」 校長先生は優しく微笑んで、うなずきました。 「言葉を持たないものはありません。全てのものは、何かを発しています。最初はそれが解らないかもしれませんが、皆さんの大きな耳でよく聞いてあげてください。その中に、自分と同じものや、自分にはないものを、皆さんは発見するでしょう。そうして、共感したり、憧れたり、つまらなく思ったり、おそれたり、可笑しかったり、軽蔑したりと、色んな感動を覚えるでしょうが、まずは理解しようとしてみてください。あなたの価値観で決めつけて、簡単に否定することは、避けなければいけません。言葉は全て自分に返ってきます。それがいかに俗悪であろうと、あなたの趣向にそぐわなかろうと、何が良くて何が悪いのか、簡単に決められるものではない。これは芸術だけに言えることではありません。色々な言葉に耳を傾けて、互いの価値観を尊重できるようになればいいと思います」 どの世界でも校長先生の話は長いようです。 しかし子象たちは、感慨深げに拝聴していました。 ──そうしている間に、いつの間にか陽は傾いて、西日が射し始めました。 すると突然、少し離れたところで、ばきばきと大きな音がしました。それは確かに、木が折れて倒れる音に違いありません。 校長先生は真っ先に気がついたようで、 「ああ、遂にここも……また行かなければならない」と残念そうに呟きましたら、担任の先生も十頭の子象も、何が起こっているのか察しました。 人里離れた山奥にも、遂に人間の手が入ってしまうことに、彼らは気がついたのでした。 しかし子象たちは戸惑う様子もなく、先ほど作った自分の作品を、大きな皀莢の根元に集めました。 そして、こういうことには慣れてしまっているのでしょうか、淡々と引っ越しの準備をし始めます。 木の倒れる音と、人間の扱う機械の音とが、彼らを追い立てるように喧しく鳴り続けます。 森林に背を向け、二頭の大きな象と、十頭の子象は、東へ向かって歩き出しました。その先には、乾いた黄土の地が続き、遥かには空と接する線も見えています。彼らが住むことのできる次の森林までは、かなり歩かなければ辿り着きそうもありません。 夕陽が象たちの後ろ姿を朱色に染めます。やや俯いた顔は、影になって暗くなっています。その姿は言うまでもなく、シャリルくんの作ったあの赤い象そのものでした。 ********************** 赤い象は、その大きな体の内に静かに燃える怒りを、表しているのかもしれません。 しかし彼らは怒りません。人間とは反対に、環境が変われば自分たちの生活を動かすのです。 もし、どこかで赤い象を見たならば、恐がったり貶したりせず、よく耳を澄ましてみてください。 拒んだり否定するのではなく、心の聴覚を、象の耳のように拡げて、その声を聞いてあげてください。 全てのものは、ハイドロキノン化粧品を発しています。

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